コラム

ココ・シャネルの生涯と彼女が残したもの

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ココ・シャネルってどんな人?

世界有数のファッションブランド「シャネルブランド」の創設者であり

20世紀を代表するファッションデザイナー

一時的な活動停止を経て、その死に至るまでファッション界の最前線に立ち続けました。

彼女が残した功績は今日のファッションにも大きな影響を残しています。

女性を解放したデザイナー

当時女性が社会進出し始めた時代の中でシャネルはある種

女性をそれまでのステレオタイプな生き方から解放したと言えるかもしれません。

当時女性はコルセットにより

胸や臀部の大きさや腰の細さを強調した服装を着ることが一般的でしたが

従来男性のファッションとされていた作業のしやすい服装を

ファッションとして確立しました。

また刺繍やレースがついた華美なデザインのドレスが当時は流通していましたが

現代では普通になった、制服や喪服にしか使われない「黒」を取り入れました。

このようにシャネルは従来の女らしいシルエット、女らしさの概念から

女性たちを解放していったのです。


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彼女が世に残したもの

スポーティー、カジュアル・シックな服装が女性のファッションの標準的なスタイルとして

確立されたのは紛れもなくシャネルの影響が大きいと言われています。

例えば婦人服へのジャージー生地の導入、動きやすさという利便性とファッション性を両立したスーツ「リトル・ブラック・ドレス」の概念の普及など、彼女の功績はとてつもなく大きいものでした。

さらに婦人服だけではなく、香水の「No.5」はシャネルを象徴する製品となりました。

様々な功績を残した彼女は『タイム』誌の20世紀の最も重要な100人に

ファッションデザイナーとして唯一選ばれています。

ジャージー生地

シャネルは機械編みの素材のジャージー生地を婦人服の素材にしました。

それまでジャージーはテニス、ゴルフなどのスポーツ服に多く使用されていました。

クチュールで使用するにはあまりにも日常的であり

取扱が難しかったのでデザイナーにも敬遠されていました。

しかしシャネルは大きな成功を納めます。

①第一次世界大戦の影響で他の素材が不足していたという時代背景。

②その時代の女性たちがよりシンプルかつ実用性のある服を求めていた点。

この2点が後押ししてくれたことが大きかったのでしょう。

当時女性たちは戦争に協力するための体を動かす職業に従事していたため

「動きやすさ」重視のジャージーのスーツとドレスが高く評価されたのです。

リトル・ブラック・ドレス

リトル・ブラック・ドレスもシャネルの大きな功績のひとつです。

シックでシンプルなデザインのこのドレスは当時賛否両論あり、

『ヴォーグ』誌はセンスのある女性にとって定番と言える一着になるであろうと予想。

一方で男性ジャーナリストたちから質素すぎると批判されました。

世界恐慌という時代背景もあり

女性たちは手頃な価格のファッションを必要としていたことも人気を博した理由になりました。

シャネルはこのドレスについて

以下の通り語っています。

「私はあえて黒を使いました。この色はいまだに衰えていません。なぜなら、黒は他の全てを一掃するからです

香水「No.5」

シャネルの最も有名なヒット商品といえば、

香水を挙げる方が多いのではないでしょうか。

中でも「No.5」マリリンモンローが愛用していたことから一躍人気になり

現在も伝説の香水として愛され続けています。

ちなみにNo.5の名前の由来は

いくつものサンプルの中からココ・シャネルが選んだのが5番目のものであり、

5月5日にドレスコレクションを発表するという数字の重なりもあったためである

という逸話が残っています。


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シャネルの人生

1883年、修道女会が運営する慈善病院で生まれ、孤児院で育ちました

18歳で修道院を出た後は、裁縫を学び仕立て屋で仕事をしながらキャバレーで歌うようになり、人気を博していました。

「ココ」の愛称は、その時に歌っていた歌「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」「Qui qu’a vu Coco dans le Trocadero(トロカデロでココを見たのは誰?)」にちなんで付けられたと言われています。

しかし容姿のみが評価され歌声の評価が低いことを知った彼女は

自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識しました。

エティエンヌ・バルサンとの出会い

シャネルはフランス軍の元騎兵将校かつ繊維業者の息子だった

エティエンヌ・バルサンと恋人になりました。

上流階級のバルサンとやがて自堕落な生活を始め

上流の文化に触れる機会や社交の場に出る機会が多くなったことから

上質な価値観を学び知性を身に着けていきました。

バルサンと暮らしている間、シャネルは主にバルサンの家に出入りする女性たちのために

帽子をデザインしていました。当初これは暇つぶしのようなものだったようですが

イギリスの実業家アーサー・カペルの後押しもありお店を出すことをすすめられました。

それが世界的ブランド「シャネル」の始まりでした。

帽子から洋服へと創作のフィールドを広げていき

1915年には「メゾン・ド・クチュール」をオープンさせました。

シャネルと世界大戦

シャネルのクチュールは1935年までに4,000人を雇用する大企業になっていましたが

当時の最大のライバルエルザ・スキャパレリがシャネルを上回る評判を呼び

オートクチュールの王座におけるシャネルの地位は脅かされるようになりました。

さらに1939年に第二次世界大戦が勃発

シャネルは一度ファッション業界から姿を消したのでした。

ちなみにシャネルは第二次世界大戦中、

ドイツ人将校や諜報機関と親しくしていたことによりフランス軍に逮捕されてしまいますが

数時間でシャネルは解放されました。

これほど早く解放された理由は「極めて有力な人物のコネ」があったからであると言われており

その人物はイギリス首相チャーチルであると考えられています。

その後10年間シャネルはスイスで亡命生活を送っていたそうです。

終戦後のカムバック

1954年、およそ10年に渡る亡命生活からパリに戻ったシャネルは

ファッション界にカムバックを果たします。

しかし当時はクリスチャン・ディオールを始めとした

強力なライバルたちが成功を納めており、シャネルが再びファッション界の中心になるには

かなり厳しい状況でした。

実際にシャネルのコレクションは「このドレスは一九三八年ですらない、一九三〇年のドレスの亡霊だ」とフランスで酷評されました。

しかし発表時フランスで酷評されたドレスは1年後には

女性の社会進出が進んでいたアメリカで爆発的な人気となりました。

それからシャネルは1971年1月10日その死に至るまでファッション界に君臨し続けました。

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おわりに

いかかでしたか。

孤児院で育ち決して裕福ではなかった彼女は

様々なものと戦いながら一代でトップブランドを創設しました。

その生涯を終えるまでファッション界の

最前線に立ち続けた彼女の人生は波乱万丈なものだったと思います。

生き方が多様化している昨今

彼女の生きざまから学べる事は多いのではないでしょうか。

今日のひとこと

「みんな、私の着ているものを見て笑いました。
でもそれが成功の鍵。みんなと同じ格好をしなかったから」

ではまた。

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